メモ。

久々に。最近読んだ本。

モモを読みました。
物心ついたときからそばにあり、そしてなぜだか読む気がまったく起こらなかったこの本。
それは、もしかしたら無意識のうちにこの本が、まだ読むときではない、と教えてくれていたからかもしれません。
そんな気を起こさせる読後感。読んどきゃよかったと後悔したヘッセとは好対照です。
私がこの本を昔読まなくてよかった、と思う理由は二つ。
ひとつは私が今までいろいろな海外古典文学(つまりはその翻訳文)を読んできていて、今でこそそれらにある独特の文章構成、言葉遣い、雰囲気に特に抵抗感を持つことがなかったこと。
もうひとつは私も「時間を盗まれた大人」になりかけていること。つまりはこどもでなくなって初めてひとつの登場人物になることが出来たということ。
これがなければ、物語のサスペンス的な部分(物語の構成)も情緒的なところも(物語が伝えたいこと)も私にとって受け付けがたいものとなっていたことでしょう。
児童文学でありながら、ひどく風刺が効いている内容(時間と人生の関係性)であるために大人の鑑賞に堪えうる非常に高質な物語となっております。
一方で児童を対象としている為にとても簡易な文章で書かれており、読者に語りかけるような文体になっていますのでとても読みやすいです。疲れたときにも後半の展開の爽快さも手助けしてぐいぐい読めます。4時間も要らず読めます。私にとって久々に寝る間を惜しんで読んだ本でした。眠い。



作者のミヒャエル・エンデは西ドイツの人だそうです。一緒にしていいのかわかりませんが、ヘッセやマンと似たような空気感を感じます。ゲーテの時代から通ずる、暗い世相に抑圧された静かで熱狂的な情熱を秘めている作風というか。そんな情熱もしばしば暑苦しいものですが、それに圧倒されるのも読書の楽しみの一つです。モモも風刺が効いています。かけすぎた山椒って感じです。でも山椒なので辛子ほどくどくなくて結構すんなり入ってきます。んー、このたとえはどうなんだ。


なんだか大切なものをもらった気になりました。テレビを見たらすぐ忘れてしまったけれど。
でも、ひとつ綺麗な時間の花の一片がたぶんどこかにしっかりある気がするのでいいのです。上質な本とはそういうものです。ふとしたときにその本の一節や情景が頭に浮かびその本の存在を確認するのです。
それで十分だし、それが楽しい。
モモもそういった本の仲間入りをすることでしょう。あと2回も読めばお気に入りの一節が口をついて出てくることになるでしょう。とても楽しみです。


あぁ、読み途中のダンセイニやらコルタサルを片付けなければ。ダンセイニは面白いんだけどな、コルタサルがな。