面白くて仕方ない。

最近ずっとはまっている本。古本市で見つけて買いました。
小鳥の巣 (岩波文庫 緑 45-3)『小鳥の巣』 鈴木三重吉著 岩波書店
岩波のHPより、

「千鳥」「山彦」等の清純素朴な作風に出発した三重吉(1882‐1936)が,著しい飛躍を示して純一独自な境界を開拓した長篇小説で,神経衰弱の一青年を主人公として,いわゆる現実暴露の悲哀,人生と社会とに対する懐疑,偶像破壊の思想などを自由な筆致と鮮麗な色感とをもって描き,世紀末的の*1頽廃した精神を表現して深刻をきわめている三重吉の代表作.解説=安倍能成

鈴木三重吉は『赤い鳥』の創刊者で日本の児童文化運動の父と呼ばれています。
この本は新仮名使い移行前どころか当用漢字制定よりもずっとずっと前の本なので(明治43年、1910年)ひどく読みにくく内容のひどさもあいまって非常に読み進めにくいのですが、あまりにも面白いのでがんばって読んでます。
どう面白いかというと、内容が笑ってしまうほどくだらなく、笑ってしまうほど主人公がひどいやつなのです。
ためしに引用してみます。ひらがなの後に々々となっているのは本来は「く」を縦に伸ばしたようなやつです。(旧)は旧字体でわたしのPCでは出なかったので常用漢字にしてあるもの、(ひらがな)は本の中でふってあるルビです。他のは私が読めなかったやつの読み仮名です。
まず前提として主人公(十吉)は女と暮らしていて学校にも行かずに神経衰弱になった挙句*2気が晴れるかと実家に帰ってきたものの、帰ったら帰ったですべての物事がいやになって鬱々としている、ということを頭に入れてください。
例えば、実家で病に倒れ衰弱しきって寝たきりの父親にくどくどと説教されているとき。

「まあそんなこととはお父さん。」と、十吉は壊れるものに障るやうに、父の言葉を遮った。もうすつかり別つてゐる。父の言はうとすることは、終ひまで聞かなくともよく別つてゐる。それだからこそ、こヽへ這入つて來て、あなたの側に寄るのでさへ、最後の尋問にでも會ふやうに辛かつた。その上、あなたがかうしてじり々々切り込んで來て、私の腐れ弱(旧)つた心を捩り上げるより前(旧)に、あなたのその息苦しい一語々々は何だ。肉を吸喰り(しゃぶり)とられたようなその顳顬*3に、蚯蚓*4のやうに浮き上がつたその逭筋の血の刻みは何でせう。話が長いと體に障ります。寝て下さい。またこの次に聞くから。

父親が息も絶え絶えに子供に説教して言うのにもかかわらずこの体たらく。ひどい。
しかし旧仮名と旧漢字(本来の漢字)は打ち難い。倍以上時間がかかります。
旧字体はいちいち手書きパッドで出さなきゃいけないのでめんどいです。
また昔の恋に悩んでいるとき。

がぢ々々に困憊*5してゐる十吉は、今はたヾ死に得ないから生きてゐるのみである。生きたいから生きてゐるといふ外に生存の理由はない。その生きるといふことは、追(旧字)究(きは)めれば、生きて何者課の中に相互の理解を享樂したいといふ努力ではあるまいか。それでなくば自分の骨に食(旧)ひ入るこの寂寥*6は何であらう。このがり々々する頭を、出來れば石にでも撲(ぶ)つ附けて、叩き潰してしまひたいほど、自分の生存をいら々々と腐らせてゐる、この堪へがたい寂寥は何であらう。人間は生命と共に寂寞を負うて生まれたものであらうか。さうしてその寂しさを亡ぼして、それを忘れて長らへるといふ事が、生きるといふ事なのであらうか。それなら生きたいといふのは寂寥と惡闘しようとする執着でなければならない。それではその寂寞の懊惱が、生を滅ぼさうと威嚇するのはなぜであらう。それが自分の現下の状(旧)態である。それを究めなければ誤(旧)魔(旧)化(旧)しである。自己を欺く塗抹である。この論斷を嘲るものは、生を何だといはうとするのか。
(中略)
女から女へと渇(かわ)きを求めても、恋(旧)は遂(旧)に自分の憧憬するものを與へ得なかつた。肉の疲憊の他には何物をも恋から得ることは出來なかつた。女が捧げ得るものは、たヾ型に押した、單調な臺詞*7に包んで出す、同じ一片の肉の陳腐な料理だけである。女はそれを以て自己の全身全霊をささげた積りで纏(旧)ひ附くのである。女なるものヽ存在はどうしてもその小さい肉片に盡きてゐる。肉の慾を追ふときは女の存在には意味がある。肉の欲求を充たし得るまでの道程には、女の名は誘引に充ちている。けれども、彼らは肉を得た後(あと)になほ欲するものを與へ得ない。肉のあとに、女の曇(旧)り濁つた淺薄な心を手の平(旧)に拾ひ上げて見たところで何になる。肉を食うた口の渇かぬ間にすらもう直ぐに渇き附く寂寥をどうすることも出來ない。同じ肉片を再び喰(しゃぶ)り返してそれが醫せられるであらうか。女なるものはたヾ、外面の單なる色彩と、隱れたる肉の價を擁して徒に驕り徒に笑(旧)つて死ぬだけの、蛇の坺殻のやうな空(旧)をと造(旧)つて、やがて老い腐つて死ぬだけが、女に期待し得るすべての意味である。

死に掛けの親のすねをかじりながら唯腐っているだけの生活の癖に何をえらそうに生を語っているのか。しかもそれを押し付けるのか。
女云々のくだりはもう本当に手放しで面白い。久々に本を読んで声を出して笑ってしまいましたよ。
このあとは自分のことをあざ笑っている気がする、というだけで野良猫を叩き潰してしまうし、黴毒(かさ)つまり梅毒(シフィリス、スピロヘータ)をわずらうし、実家がいやになったといって孤島に行っては文句ばっかだし、というほんとどうしようもない人です。
本当に一事が万事この調子で進んでいきます。読みにくくて仕方ないが楽しいです。好きな人は少ないでしょうけれど、まごうことなき名作です。岩波の紹介文、世紀末的の頽廃した精神を表現して深刻をきわめている三重吉の代表作、がかなり適切にこの小説を捕らえています。深刻を究めているって。はははは。
あの芥川の『地獄変』の芸術的至上主義的退廃的雰囲気が大好きな私ですが、こんな悲観的世紀末的退廃も好きです。川端の退廃感も好きですが。あれはちょいとした気狂いです。ははは。
ちなみに三重吉逸話でこんなものを見つけました。
ケペル先生のブログ:「赤い鳥」をつくった鈴木三重吉
本人もどうしようもない人だったようで。まあ、こんなことを書く人はあんままともじゃないでしょうけれどね。とりあえず、おすすめ。

*1:ママ

*2:文中では頭ががじ々々と痛む、とあります

*3:しょうじゅ、こめかみ。これが勘で読めた私は偉いと思う

*4:みみず。これは読めなかった

*5:こんぱい

*6:せきりょう

*7:(おそらく)せりふ