評論家とは。

今日ネットで調べ物をしていたら、「あべ かしょう(本来は漢字表記です)」という人のファンサイトにたどり着いた。この人に関してはよくわかんないけど、映画評論家、が肩書きで、まあサブカルを語ってますよ、という感じでいいのだと思う。
さて、ここにある、立教大学の学生さんらがこの人に提出したレポートがどれもこれもなかなか読める物なので、すごいと思う。単純に読みやすいか、また、客観的観点もあるか、自分の考えに偏執していないか、という点では首をかしげる物もありましたが、基本的に文章の訓練をしていない(と思われる)学生らが書いた物としてはかなりの力作揃い。みんな自分の言葉をぎこちないなりに「考えを伝える道具」として使っている感じがしました。うーん、自分の雰囲気含め、こうやって文章で考えを伝えるんだよ!って教えてもらって、じゃあ、せんせに伝えたい私の考え書いてみる!ってのやりとりの意図をみんなわかってる感じです。おお、キャッチボール成功。
文章を書けない、つまり、起承転結の筋道を立ててから肉付けをして一つの考えを披瀝していく、という読み手に優しい「りーだーふれんどりー」な文章を書くことが苦手であること、曖昧さを取り除いて一旦考えを一つの形に落とし込む意識が欠如していること、そして何より自分語りをしてしまいがちなところがあることを自覚している私には大変すごいなあと感心してしまう。

で、また自分語りをしてしまいましたが、それらのレポートおよびあべさんのコメント、ファンサイト管理人の言葉を読んではた、と疑問に思ったことがあります。
果たして、批評とはいったい何なのか。評論とはなんなのか。なんであんなにごてごてした言葉を選ぶのか。
だって、評論とか、批評って、いろんな人に読んでもらうのが目的なのでは?評論の対象である作品は自分の考えとかを形にした物で、それがどんな感じでもいいとおもうんです。
でも、批評家がごてごてした文章で自分らしさを出すのって違う気が。「視点」「観点」「論点」で勝負するのはいいのですが、文章の雰囲気で勝負していいのかなあという気がします。人のふんどしで相撲取るみたいな。
だから、私がさっき上で書いた「文章がかけない」から始まるひと段落のような書き方をしてしまっている評論は読みにくいし、そこじゃないだろ、って思うので余り好きじゃないです。
そこで、彼らの文章を見てみると、確かにしっかりしたことを書いているのですが、それ以上に文章の書き方に凝っているのでもっと素直に気持ちを教えてよ!という気持ちになります。


自分で書くときは、いいたいことを伝えるために文章を使おう、と反省しました。

で、サブカルってやっぱり気持ち悪いってことでいいんだよね?