自尊的な、あまりにも自尊的な。

ちょっと図書館から借りてきて読んでいる本に、「アメリカ的な、余りにもアメリカ的な」「肯定的な、余りにも肯定的な」という語句があって、そういえば昔「ー的な、余りにもー的な」って言葉が好きで一人つぶやいてたなあ、ということを思い出すと同時に、私はどこからこれを拝借したんだろう、ということが気になりました。
で、おそらくニーチェの著作『人間的な、余りに人間的な』というのが元ネタじゃないか、もしくはというかこっちな様な気がしますが、芥川龍之介作『文芸的な、余りに文芸的な』かなと。でもこれって「余りに」なんですよね。ニーチェもアマゾンに確認してみても「余りに」の訳しかないのです。
で、何故私は「余りに"も"」なのか。そんでみんなどうなのか、と。
ということでグーグルで検索かけてみました。

"的な、余りにも" OR "的な、あまりにも" の検索結果 約 27,900 件
"的な、余りに" OR "的な、あまりに"  の検索結果 約 68,200 件
"的な、余りに" OR "的な、あまりに" -文芸的 -人間的 -革命的 の検索結果 約 49,000 件
"的な、余りにも" OR "的な、あまりにも" -文芸的 -人間的 -革命的 の検索結果 約 23,000 件

ということで世の中的にもちゃんと「余りに」のほうが多勢のようです。
ちなみにですが、印象としてはブログの題名とかに使われているのは「余りにも」のほうが多いような気がしました。感覚的には「余りにも」派が一般的なような。
また、手元の電子辞書内の広辞苑で調べても、「余りに」は存在するものの、「余りにも」という語彙は存在しません。「―にも」で挙げられるのは「世にも」「夢にも」「中にも」「何分にも」「今にも」など。
で、それらの多くは元の語彙を、「世にも」だったら「世に」を、強めた語彙でありました。
ということでまあ見えてた結果なのですが、世の中の人が言葉を大げさにしてった結果、おそらく強調の意味の係助詞「も」をつけてしまった、ということなのでしょうね。で、そっちのほうがなんだか語呂がいいし、私もそれのどれかを見て「余りにも」派になったのでしょう。しかし誤用じゃないけど、正しい使い方といえるのは「余りに」のほうでありましょうし、今後はそっちを使おう。
しかし、『Menschliches, Allzumenschliches』(英題『Human, All Too Human』)を『人間的な、余りに人間的な』と訳した人は凄いな、と思いました。余りに感覚的。
と、瑣末な疑問を自分導きたい方向の解釈で結論付けた気になったのは夜の3時半ごろ。ダメですね。


さっきまで梶井基次郎を読んでたんですが、自然派的な写実主義的な小説は心に余裕がたっぷりあるときじゃないとうまく読めないな、と思いました。自然主義カウンターカルチャーの芸術至上主義とその中道派と。昔はそんな19世紀あたりの本が好きでよんでたんだったなあ。
そして、京都の丸善閉店時には「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾」が何個も置かれてたんだよ、にやにやしながら語る人がいたなあなんてことも思い出しながら。結局その跡地にはその近辺に何店舗もあるカラオケ屋が入っていてわりあい盛況の様子です。丸善は私にとっての良心だったのですが、まあ今はジュンク堂があるからいいです。本読まないし。
日々は過ぎ行きそは変わらずいられるか。無理ですね。理系院生として頑張ります。