思うこと

先日の毎にち新聞にいじめにあった経験を語り、でも生きていて良かったと思うから、自殺なんかしないで、と呼びかける投稿記事の特集があった。
読んでいて辛くなる。なんでこんな目にあわなきゃいけないの?と人ごとながら、胸が詰まる思いがした。
だが、その見開きの特集の全体をみて、違和感を感じた。
いじめた方の体験談が一つも無い。いじめられた方だけがたくさん記事になっている。いじめた経験を持っている人がひとりも声をあげないなんて事があるんだろうか?そんな事はないんじゃないか?少し作為的なものが動いてるんじゃないか?報道って簡単に操作出来るんだな、ととても嫌な感じを持っていた。

そしたら今日の夕刊に

加害者からの相談も急増
標的になるのは嫌
本当は助けたいが
仲直りどうしたら

と、各機関への加害者からの相談も目立ってきたという記事がでた。世の中まんざら捨てたもんじゃないな、と少し安心した。いじめは無くす事は出来ないだろうけど、その時にどうしたらその状況をよくする事が出来るかを、当事者が考えられる力を付ける事が大事なんじゃないの

それで自分が小学生の頃に、見た体験したりした事を思い出していた。
からかったり仲間はずれにしたりいびったり、体や頭が不自由な事をあげつらってはやし立てたり、そんな事は普通にあった。私の通っていた小学校は、一学年が40人くらい4クラスあったから、ほんとにいろんな子がいた。
でも、小学校や中学校(地元も私の通った私立中学も含めて)で、いじめられたから自殺したなんて話は聞いた事がない。
何がどう違うのかが分からないけど、きっと親も子も考え方が当時とは違うんだろうな。


ここ数年小学生に接して感じた事。
毎年毎年ほんの少しの人数だけど、新しい出会いがあるにも関わらずほとんど全員が、
人の話をきちんと聞く事が出来ない。
ほんの数十分じっと座って、一つの事に取り組む事が出来ない。
周りの事などお構いなしに自分の事だけを訴えようとする。
少し注意をするとまず人のせいにして自分の非を認めようとしない。
足をばたばたしたり、机や椅子をがたがた動かしたり、すぐに椅子から立って動こうとする。

娘が小学生の頃まではまだそんな子供が教室にいても担任はきちんと注意をして、社会生活を送る事がどんな事なのかの基本を教えていたと思う*1

きょういくきほん法とかそんな事よりも(それもきちんと考えなきゃいけないけど)、生きてる経験の少ない子供には、理不尽と子供が感じる事でも、親が圧倒的な力で押さえ込まなきゃいけない事もあるはず。
そんな事をされずに、子供の個性を尊重、詰めこみ教育はいけないとかいって、ゆとって育ってきた人たちが親になって何をしてるかって言うと、自分は我慢などほとんど経験せずに個性を尊重してもらって年を重ねてるから、精神的に子供のままなので、同じ子供目線で接する自分の子供の命を奪ってしまってるんじゃない?

大人になって自分で生活を立てていかなきゃいけなくなった時に、ちゃんと自分の力で生活できる練習を子供の頃からするんじゃないの?したくない事でもやらなきゃいけない事がある事を覚えなきゃいけないんじゃないの?
自分の個性と相手の個性がぶつかったらどうするの?

小さな子供でも、他人の子供でも、自分の事を思って叱ってくれるのは絶対に感じるはず。
通い始めはお互いに探り合って緊張してるから大人しいけど、慣れてくるとどんどんやりたい放題になってくる。
そんな時に私はそれまでとは違う声で、キツく叱ったりする。でも、にくいとか嫌いとかそんな気持ちは全然ない。
せっかく英語を勉強しようって来てくれてるんだから、ちゃんと習って知識を増やして新しい事を覚えるおもしろさを分かってほしいから。そこでは何をする事が一番大事なのかを子供たちは分かっていると信じる事が出来るから。
そんな思いを持って接してきたお子たちは、少しずつちゃんと座ったり、人の話を相手の顔を見ながら聞いたり出来るようになる。

こんな小さな事では だめなのかなぁ 
根っこのとこはもっと深刻なのかなぁ


ストーブの熱にあたってぼんやりした頭で思ったことでした。

*1:当時の担任は親が聞いたら耳の痛い事もずけずけ(言い方悪いけど悪意は無いから)と言ってくれた