うえに答えて。

さすが、(元?)フェミニズム戦線急先鋒の上野千鶴子。なかなか面白いことをおっしゃる。ミニスカートなんぞはいているのは日本女子だけかのような物言いは事実から理論を導きだすというよりも、自分の理論に当てはまるように事実を解釈する最近の日本の研究体制のよう*1ですね。
以前読んだ文章(もう10年以上前の文章だと思う)はいろいろと納得する部分があったのに今回のは全くないのよね。なんか旧フェミニズムの妄執にとらわれている人(女性)ってもはやそこ(「性別的差異を全く考慮しない男女平等」をめざすフェミニズム)から離れた発想ができなくなっているように思えるのです。
と、ここで一考。
性別に起因する根源的差異を全く考慮しない、ということが女性が女性らしさ(女という性に基づくもの)を前面に押し出した行動をとることを否定するという馬鹿げた思考に陥るのだと思うのですね。それが「ミスコンは女という性を見世物にしている女権(まさにこの言葉!)を貶めるものである」、「ホステスやキャバ嬢(いわゆる風俗嬢)は全女性(ここ重要←自分で言うな)の汚点である」といった発想につながるのでしょう。
もう、どうしたってこれらの発想は時代にそぐわないものになっている。人の考えっていうものはどんなものにせよ移り変わってゆくものであることに間違いないわけで、となると一つの考えに固執することは、特にそれがある時代を象徴するものであればあるほど、自らを旧時代の発想に縛り付けることになり、柔軟な発想をすることをずっとずっと困難にしてしまうことになるでしょう。
女性の権利はいまだ改善されていない部分も多くはあるものの、以前(つまり彼女らが最も輝いて体制と戦っていた時代)と比べてかなり向上して、(あえて)彼女ら「強い女」のまさに鬼女(いいすぎ)のような働き振りを存分に見てきて、そして彼女らがそれこそ高い地位についている現代では、たぶん多くの人が(実際の運動を目にしていない人たちも含め)いささか食傷気味なのではないか、という気がするんですね。
だからこそ、上に挙げられているような「え、いつの時代?」みたいな発言を見るとちょっとへーとか思いながらもなんだか反感を覚えてしまうのでしょう(ん?私だけ?)。
けれど実際彼女らの男勝り(この発言もだめなんですよね)の奮闘がなければ男女雇用機会均等法が制定されたり、「セクハラ」、「アカハラ」(少し違うけれども)などの言葉が一般に広く認識されたりと女性の地位向上がありえなかったわけですから彼女らの功績は目に見えないものも含めまさに語りつくせないものがあります。
だから、私たちにとって一番いいのは彼女らが過去の栄光に満足してゆったり話が会う人らを集めて論議してもらう、ってところじゃないでしょうか?
ま、彼女らの積み上げたものの上にのうのうと立ってるだけの私がいえることかどうかもわかりませんけれど。
つーか、上野千鶴子、私の先輩か(なんて偉そうなものいい)。専攻は全く違うけど。あと、これがのってたのは毎日新聞だ。そんな気がする。

*1:いまうちの大学の院いってる人がこういっていた。だから研究が面白くないとも。