「はは」思ったこと

2000年に観た剛のヤスは、ほんとうにすごかった。お芝居を観て、だーだーだーだー泣いたのははじめてだった。
それまで生きてきた自分の心の中にしまっておきたい、隠しておきたい気持ちを、ずるずるずるずる引きづり出されて、苦しくなった。
でも、最後の”ぎんちゃんだーーーーいすき!!”って言葉が、苦しいつらい気持ちをぜーんぶ消し去っていった、それもあれもぜーんぶひっくるめて、それでいいんだよって言われて、心動かされたような記憶だ。

それから、機会があればずっと剛の舞台を見続けてきたけれど、あれ以来、それ以上のものを見せてもらっていない(椿姫は大津へ行く前まではよかったのに)。
今回も期待してなかったし、直前に観た映画SPでのつつみんは圧倒的な存在感で、こりゃ、とてもじゃないが、台詞でやりとりしたり、演技で渡り合う二人芝居にはならないだろうと思っていた。


13日のソワレ。まさか、あそこまで何も伝わってこないとは、本当にがっかり。
パンフの中で対談してる剛の言葉が本当に本人から発せられたものなのなら、なんで生の表現があんな程度にしかならないのか。
稽古中の剛と対談の剛と本番の剛は全く別人格なのか?ってくらい、剛が発する言葉からは何も気持ちが伝わってこなかった。
ただ怒鳴ってるだけで(これはマチネをごらんなった方も、それ以前にごらんになったあずまやーずの方も同じ思い)、ただ声を発して、山登りのまねごとをしてる剛でしかなかった。
つつみんは本当に骨折してる人だったのに。本当にクライマーだったのに。道具の扱いがすごく自然にできていたのに。
たぶん剛は本当にk2に登る人のように装備を扱うまでにはなれなかったんだと思う。
舞台の上に立ちたいのならば、もっともっとその稽古のために時間をとれるようにすべきだ。それができないのなら、潔く舞台に立つことを諦めるべきだと思う。
つつみんは、声を張り上げるだけの目の前のつよしにがっかりしてるんじゃないかって、そんな心配をしながら見ていた。

とてもとても大切な友、自分の命と引き換えにしてまでも助けたいと心から願っているのに、現実はどうしてもそれが無理で、その事実を受け入れて、自分だけ生き延びて、その友の生きた事実と自分が山に置き去りにしたために友の命をなくしてしまったという事実を背負って生きなければいけない男の気持ちが、全く表現できていなかったと私は感じた。パンフの中ではそれが分かってるような口ぶりなのに。それが、土曜日。

翌日曜のマチネの後。婦女子の列にふつーに混じってエスカレーターを並んで降りてるんで、ついフルネームで呼び捨ててしまった、あべひろし。回りも気づいて目線を送ってたんだけど、平然としてて、すごくかっこよかった。肝心の剛は前日よりはせりふがきちんと聞き取れて、テーラーに七分くらいなってたかな。前日は剛がせりふを発してただけで、つつみんと同じ台本を読んだ人とは思えないくらいちぐはぐな舞台だったから。

期待してなかったら前日とは別人だったので、剛に何がおこったんだろう、なんて思った。昼講演だけだったからかなぁ。

出来のいい日と悪い日があるのは、仕方がない。人間だもの。でも、剛はその幅が広すぎるのかもしれないと、二講演続けて観てそう思った。
もっともっと舞台だけに集中できるのなら、もっといい出来になるのかもしれない。
そう期待してもいいかもしれない・・・なんてね。
映画をやってライブやってレギュラーの番組が数本って、それではいかんのだよ。そんなに器用じゃないって知ってるだろうに。

ま、そんな感じでありました。でもでもやっぱりずっとずっとすまたちを見続けていくのには変わりはないのあります。てへ。