映画を見た

おやじがチェの映画を見たいという。私はキューバ革命ゲバラにも興味が持てないので、それは見たくないと言っていた。
それなら、シネコンで同時間に見られる他の映画を見ればいい(驚きでしょ。一人で映画館にいられるようになったなんて。)というので、へーすけとそうじが共演している『禅(ZEN)』を観た。

まっったく予備知識なしで見始めて、初めて道元という人を知った。「正法眼蔵」と道元を結べと言われたら、学生の頃は出来たと思うが、さてそれが何か説明せよと言われたら、さっぱりちんぷんかんぷんなのは当時と同じだろう。

勘太郎が演じる道元は、きっと道元って人はそういった人だったのだろうと思えた。

人としての有り様を求めて求めてずっとずっといけば、そう言った考え方や生きようになるだろうなぁと思えた。

私の父親は曹洞宗の儀式でおくられた。家には仏壇はなかったが、何かの折に触れる”しょうをあきらめしをあきらむるはぶっけいちだいじのいんねんなり”で始まる修證義は何故が耳に残っていた。
母方の祖母祖父の時もそうであったお葬式の時、お坊さんが唱えるこのお経のリズムが心地よくて、意味が分からないまま所々が私の中に積もっていった。
それが、今日観た映画の中で、少しずつ胸の中に溢れてきたのか、なんでこのシーンで泣けてくるのか分からない場面で、何度となくこみ上げてくるものがあって、涙を流していた。
不思議な事だけど、そんな人があちこちでハナをすすってる音がする。



清少納言のようだなと思う、春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり が道元の言葉だったとは、今日初めて知った。

でだ。私の知ってる曹洞宗のおっさまは、道元のありようとは随分かけ離れてるなあと、映画を観ながら思った。だって、その人は明らかに職業なんだもの。
700年も時が流れれば、いっとう最初の志と違って来てしまうのもそれは仕方のない事だろうな。

今あるもの、おきている現象、何もかもすべて受け入れる。受け入れるために、今ある命をなくそうとも、と座禅を組む道元を観ながら、おやじは革命の名の下に(革命に必要なものは”愛”なんだ と映画を見終わったおやじに教えられる。愛があったら人同士で殺し合わないじゃんと私は思うのだけど。)人と人と殺し合う映画をどんな思いで観てるのかなぁ、なんて思ったりした。

静かに時が流れる、だけど心がじいんとするいい映画だった。