あったあった。

伊藤整先生の『火の鳥』のなかで『かもめ』について言及してる部分。

「かもめ」は、静かな劇だ。アルカージナを演ずる役者のためには随分多くのシチュエーションがあつて面白いけれども、外のどの役も自分が完全に役を果たしたような気がしないらしい。性格の切れつぱしのようなセリフだけがあちこちに散らばっている。
「君たちはこの芝居では、一人一人、自分の役を十分にやつていないような気がするだろう。だから、きつと満ち足りないような気がするだろうけれども、たがいに言い合つていることの全体に注意したまえ。それがチェーホフだ。そしてその全体がシンフォニイとなるためには一人一人が、自分は人生の切れつぱしだけを表現しているという意識がなければならない。」
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わたしは『かもめ』は知らないんだけど、『櫻の園』を読みかけてる印象ではそれはそれは静かな劇でしょうね。音にびっくりするのは最後のシーンぐらいではないのですか?ええっと、ちょっと前のごろさんの舞台のように。
火の鳥』の主人公は『かもめ』『三人姉妹』『櫻の園』といったチェーホフの舞台を演じながら、誰からも生身の視線で見られる女優として、故郷を喪失しているハーフとして、子を喪失している女として、父の亡霊にすがり続ける娘として、人生という劇場で様々な(意図された)演出を受けながら生島エミという女(人、ではないね)を演じ続けていくのですが、その中で、チェーホフを、その舞台を演出し続けた田島先生という愛人を、そして「あの情緒化された生の虚無感で観客に訴えるという、チェーホフ」のようなや「古い型を生かす歌舞伎的な」舞台が、新しい舞台や映画などの時流に押し流されていくことを感じます(♪Vidio killed the radio star....)。そしてその激流の中で翻弄され、身を千切られ、自由になりそしてやっぱり自由をなくしたことに気づきます。人生の深淵をのぞきこんでしまった時に感じる空虚感はこわい。
でまあ、彼女の気持ちとそれを取り巻く変化の過程をみると、たぶん伊藤整が感じたチェーホフが後世で上演されることと、端々に書いてある日本人が演じることへの違和感を読み取ることが出来るわけで、「日常生活の言葉や動作の中に浮かぶ不安や憂鬱、しーんとした舞台の効果が根本であつた。軽い溜息をつくキッカケ、ふとしたすれ違いのときの動作、忘れられた頃に起こる物音の効果など」を重要視するロシアの亡霊の作り出した演劇は全共闘も過去の幻影に過ぎない今の世の中ですっと入ってくるのはなかなかきついだろうなあという気がします。
なんていうか、チェーホフってジグソーパズルのように、すべてのピースがそろったら綺麗に全体像が見えるものではなく、立体視のような条件をそろえてなおかつこっちが努力すればぱっと見えるものなんではないでしょうか。わかんないけど。絵画のような二次元的な世界を描き出してるんじゃなくて、奥行きのあるジオラマみたいな感じをイメージしてみたんだけど。だから、演じてる側と演出側と、見ている側が三次元的な視点を持ってないとうまい事行かないんじゃないかな、とか思う。結局個人の人生も誰かの切れッ端をかき集めているのかもしれないから、ある意味見やすいかも知れなんだけれども、現代ってそういう発想は悪だからなあ。みんな自分の人生を生きるって意気込んでるし。たぶん。
見ても読んでもないくせに偉そうに。
私はこの生島エミを見ているとなんだか自分を見ているような気がしてしまうことが多々ありました。事象が似ているわけじゃなくて、心象が似ている。なんでだろ。も一回読み直そうと思ってます。
はまぞうになかったから紹介できません。私は古本市で見つけて500円だったので即買いしました。