細かいけれど。

ギリシャ神話の神と八百万の神とは違うよ。
八百万の神ギリシャ神話で言うニンフとかだと思う。
ギリシャ神話の神はあくまで神のみ。雷神かつ最高神ゼウス、その妻で婚姻の女神ヘラ、闘神アレス、狩りの神アルテミス、太陽神アポロン、春風のゼピュロス、鍛冶の神へパイストス等、何かを司る神なのです。
一方神道における神、ってのは天照大神とか月読命大国主命とか名前を持っている神々が主体でこれはギリシャ神話と同じなんですが、八百万の神ってのは私が昔上賀茂神社禰宜さんに聞いた話によると、その名を持つ神以外のそこらじゅうに溢れている神々のこと、らしい。
だからいわゆる草の精とか花の精とか名も無き精霊を総称して「八百万の神」というんだそうです。アマテラスとかは八百万の神ではないんだそうだ。ほんとかしら。
ギリシャ神話では精霊はニンフといって草や花などの形をしていて、それぞれ意志もあるし、人間を水仙(ナルキッスス)に変えてしまったり山彦(エコー)に変えてしまえる力も持っているので、神ではないといえど相当の地位ではあるわけです。わがままだし。
いいたいことはぜんぜん違っているんだろうし本筋とは関係ないところに突っ込んでしまったけれど、気になったのでかいてみた。


あと、最後2行の言葉について、ちょっと昔に友達に言ったことを思い出しました。

人とその人自身の心は闘牛なんですよ。戦いです。

人生は闘牛場のアリーナ。
そこには悩みとか、苦しみとかいう強大な牛がいて、荒い息を立てている。
闘牛士である自分自身に姿を見るや否や突進してくるものもいるけれど、基本的にはこちらからいろんなことを経験してさま座に思い巡らす事で煽り立てないと向かってこない。
それで、いざ向かってきたときにそれまで得た様々な力であるマントを翻し、如何に自分に近いところまでひきつけて牛を意のままにすることが出来るか。
如何に美しく牛を交わすことが出来るのか。
時には恐れてうまくかわせなくて怪我をすることもあるだろう。でもその経験があってこそ次はさらに華麗に牛を操ることが出来る。
そして、最高の演技が出来たとき、万雷の拍手と自らの演技に酔いしれる至福の時間に恍惚となるだろう。
それは何も考えず、何も悩まないぼーっと突っ立ってるだけの闘牛士には体験しうることの無い至高の瞬間。
美しき人生には泥臭い頭の中の戦いが必要なのです。


なんて事を夜中のタナカコーヒで説いてました。
ああ、若い。青臭い。あたまいたい。早く寝よう。ぐう。

全然関係ないんですが、最近同名の幼児が巻き込まれる事故事件が2件起こっていてびびる。名前が珍しくもなくなっていることと、痛ましい事態に。