おばさんH

ちょっと思う事を思うままに。
おばさんHというハンドルを付けて書き込みをしたとする。その字面をみて、ああ、あの少年Hをもじってるのねって気づく人もいるだろう。でも、元々の小説を知らない人は、Hさんというおばさんだとしか思わないよな。知ってる人は、知らない人より少しだけ楽しい気分になれたりするんじゃないだろうか。
舞台や映画を観る時にでも、私は原作のあるものは予め読んでいきたいと思い、できる限りそうしようとする。そして、自分なりにその世界を頭の中にぼんやりとでも作って出かける。自分の知ってる事がたくさんあるほど、舞台や映画をみていてもおもしろさが増す事を体験済みだからだ。
演じる人だって、コピーロボットじゃないんだから、役を原作や台本通りに寸分違わず再現などできるはずもない。どうしたって演者の素の所と役とに開きができるだろう。その間を何でどういう具合に埋めてお客さんにみせるか、役者の思い通りに演出家の思い通りにできたか、それが演じることの難しさと面白さなんだろうと思う。どんなに台詞が少なかろうと、ライトを浴びていなかろうと、私がここ2年くらいで観た舞台の上で、それをおざなりにしている人はいなかったように思う。板の上だけじゃない、その舞台に関わっている人全員の思いが伝わってくるんだ(だからカーテンコールの拍手はスタッフの人たちへのつもりもある。天保の時はさらにその思いが強かった)。
その時に、役が最初から最後まできちんとその人物として出来上がっていれば、自分の思い描いていた像と違っていても全然構わない。それは台詞にこめられた気持ちからも感じる事ができるから、異なっていた像も私の中で同化していくからだ。
そこで、今回の剛だ。確かに第一声は場内に響き渡り一瞬で観客を舞台に引き寄せるいい声だった。いい声だけどそれは役の人ではないようで、私は目の前の茶の間の剛を、テレビの中にいる剛を見ているような気になった。あの時代の人の気持ちに沿おうとしていない、わかっていないなぁと思い知らされて興ざめしたのが”貯金が千円になったら”という台詞の所だ。千円の半分を妹の嫁入りに支度金にしてやろう、というその貨幣価値が、剛の声からは今の千円に聞こえたんだ。父親が出奔して上の学校へ行く事を諦め親代わりをして一家を支えてきた人物が自分の中できちんとイメージできていない剛を感じていた。屋根の上で気がふれてる人も、”ぷっ”で子どもになってる剛とさほど変わりなく思えた。
後から読んだパンフレットに、河原さんに”雰囲気が現代人なんだよね”と言われたとあり、私が感じた事は間違ってなかったわけで、稽古から本番までの間があったのに、それでもそのままでOKを出してるとすれば、それが私には理解出来なかった。
舞台としてはいいお芝居だったとは思うけど、剛がよかったかと言えば、よくはなかったと思う。あれがテレビや映画でシーン事の撮影だったら、平面のつなぎ合わせでよかったかもしれないけど。

舞台もオーケストラも同じだと思う。指揮者と演奏者の気持ちと表現力で作品をどう観客に伝えるか、演奏者の思いが大いに伝わってくれば、台詞など無くても涙が出るほど感動できる。バレエも同じだろう。いや、人に何かを伝えるってこと全てに通じるはずだ。

それも感じ方は様々でいいはずだ。ブラボー!!と立ち上がる人がいても、さっさと帰り支度をする人がいても、途中で寝てしまっている人がいても、よそさまに迷惑をかけなければどういう態度でも咎められるものではないはずだ。
知らない人をどうして攻撃できるんだろう、なんだか心が貧しい人なのかしらなんて思った。

で、浮かんだ言葉。確か昔聖書の時間にならった。深い意味は覚えてないけど、「こころの貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは幸である。彼らは慰められるであろう・・・・」と続く。山上の垂訓って言ったよな。だから何?なんだけど、ネットって時々辛い事がある。頑張ってる人はほんとに偉いなと思う。