自分を俯瞰的に見られるか。

ただいまテスト期間中なので、あちこちのカフェで勉強しています。
自分の部屋だとすぐ他ごとをしてしまうし、図書館は自由に歩きまわれるのでいまいち集中できないし、ということで適度な雑音があってある程度自由が制限されるカフェが一番勉強がはかどるので気分転換もかねていろんなカフェをうろうろしています。
が、意外と勉強に集中できるカフェというのも少なくて、人がいっぱいになってくると(あぁ、どいたほうがいいのかな)とはらはらしてしまうし、お客さんが少なくても店員がうろうろしていると(あ、一回頼んだだけで長居してごめんなさい)と後ろめたくなったり、結局集中できてなかったり。こんなときは悲しい気分になりながら店を後にします。
こういうのは自分が悪いし店にも迷惑をかけているな、と考える気弱な自分がいやだな、とひとりで落ち込んでいますが、腹を立てながら出てくることもあります。
今日は二度も体験しました。
それはとてもありがちなことなのですが、とても他の客がいるとは考えてもいないように大声でがなり立てるように話す人がいた、ということです。
大抵はちょっとしたお偉いさんかおば様方です。
ちょっとしたお偉いさん、このちょっとしたという接頭語はこの場合とても重要ですが、はよほど自分ことを皆に知ってほしいのか常に大声で笑い、しゃべります。不愉快です。
おば様は細やかな神経がないのか自分の話題に熱中しすぎて我を忘れたように、しゃべります。しかも複数人で(しばしば片手では数え切れない人数で)タッグを組んで店の雰囲気を飲み込みきってしまう場合も多くあります。非常に不愉快です。
今日は20人のおばさまvs私という孤独な戦いを強いられ、はやばやと退却を余儀なくされました。ちょっとしたお偉いさんは私が粘り勝ちです。
何故彼らは自らたちが白眼視されていることに気づこうとしないのでしょう。そこには自己の世界しか見えていない尊大な自意識があるからに違いないのです。それに気づかない限りは彼らは事故を客観視することなどできやしません。
では、いつか気づく日が来るのでしょうか。残念ながらそれは期待するだけ損という物でしょう。なぜなら、彼らは客観視する能力を自ら放棄することによってそういった自意識を手に入れたのです。これは客観視して自己を見出す、という図式の出発点が失われてしまっているということを意味します。こんな出発点がなくてゴールだけがあるレースを期待して見守るなんていうことは馬鹿のすることです。馬鹿ではない我々はそんな意味のない期待をするのやめて彼らの肥大した自意識を諦めとともにいつまでも眺めていることしか出来ないのです。


と、うるさい人にむかついたことだけを書こうと思ったのに、何故かいつのまにやら倉橋由美子みたいな文章になっていた(と私は思う)。これは他分ものすごく眠いからこんな風になってしまったのだろうな。早くテスト終わらないかな。


さて、デスノの漫画を買ったら是非私にも読ませてください。で、結局月なのかなーLなのかなー