ハダカの王様の作り方

チョナンカンが韓国語を話し、主演映画(と私は全く思わないが)を作るまでをずっと見てきた。草なぎ剛は確かに努力をしたと認める。その努力は尊敬に値する。ただそれはそのことを生業とするならば、過剰に褒められるものでは無いと感じる。役者としての剛がとても素敵だったのは、自分に自信も演ずる力も無いことを知っていたからだと思う。ハングルを話すようになって”ハンプリ”を覚え、視聴率を稼ぐ役者と言われるからなのか、なんの自信だか分からないものを身につけていった。
モスクワへ行こうとしてる人なら、挨拶の言葉くらい覚えて行くのは当たり前だろう。その当たり前の一言を剛が発しただけで”すごいですね、ちゃんと勉強してるんだ”ってコメントを発するテレビ局の人。それをそのまま、自分はすごいんだ、映画も評価されて、いい役者なんだって、剛は思うんだよね。表現が素晴らしいって。
こうして、ハダカの王様は作られていくんだ。かなしいよう。

ちょっとだけ引用。
あまりにたくさんの頼りない言葉(=単なる記号)が浮遊しすぎ、本当に思いをつなげる言葉を精一杯捜す努力がなおざりにされている。それを思うと背中がうそ寒くなる。感動作と宣伝された映画や小説に何百万という人が一斉に涙する、もしくはムリにでも泣いて気持ちよくなろうとするのは、そうした歪んだ言葉のありようが生んでいるのだろう。

映画って切り取った一枚一枚の画像のつなぎ合わせたものもそう呼ぶんだろうか。それで最優秀賞ってもらえて、新聞に草なぎ剛帰国って記事になるのね。