続き

家族は互いに誠意を持って言葉を尽くすべきです。どうしても分かり合えない部分は残ります。しかし結果は二の次。言葉を重ねる努力が人と人との関係を作るのです。
ところが今の人たちは「分かってもらえなくていい」という。言葉は気持ちがあって初めて獲得出来るし、逆に気持ちがあっても言葉がなければ表現出来ない。日本では言葉と気持ちの両方が失われつつあるようです。
日本語はますます単純になっています。理論武装出来ない若者が増えています。イラク戦争には「平和がいいから戦争反対。」有事法制には「戦争がいやだから反対」「北朝鮮が怖いから賛成」という。
なぜボランティアをするのか。なぜ今のイラクに行くのか。答えられるだけの理論武装が社会的な行動には必要なんです。

なぜ日本語は単純になったのだろう。
「訪ねていくところ」を失ってしまったからです。わたくしたちはかつて、人間や社会について先人たちの思考の蓄積を訪ねて読み、大人の話を聞いて自分のスタンスを固めてきました。

今、社会不安が渦巻き、誰もが「生きにくい世の中だ」という。でもそうなった原因や社会の行方を考えるとき、「訪ねていくところ」が尽きてしまった気がします。90年代、つまりポストモダン以降特に顕著です。
今の日本人は「訪ねていくところ」を持たない「迷子の集団」。おまけに自分を迷子とも思ってない。無自覚な迷子集団のようです。

では「迷子の時代」に何を書くのか。
失われた言葉の蓄積を取り戻したい。そのことに今や何の意味があるかという意見もあるが、言葉に代わるものを人類はとりあえず持っていないのですから。=おわり。