意見

上記の文芸評論家とやらの意見への反論を(いわゆる「若者世代」のインテリとして)させてもらう。
「あまりぱっとしない現実から遊離した、ウソみたいに甘美な物語」にはまっている(た)のは決して「現代」の「若くて読者体験の乏しい」に限ったことではない。それは『指輪物語』が書かれたのが決して現代ではなかったり、くだらない恋愛小説だってロマン主義の時代に限らず大衆文化としてどの時代にも普遍的に存在し、ある程度の熱狂を持って容認されていたということを鑑みれば自明である。現実から遊離した物語に酔いしれたいと思う願望は必ずしも、とはいえないが、ある程度は各人が持っている感情だと思う。(彼が言う上質な文学であると思われる)純文学でさえ、自らの実体験から遠く離れた世界へと自分の意識を飛ばしたいという願いの下で少なくとも私は読む。(ちなみに、あまりに現実に即した文章を書くようになった後期自然派の小説は非常に退屈極まりない。)幻想世界に耽溺したくて読むのはなにも幻想小説、恋愛小説に限ったことではないのだ。小説を読むということに「知識や教養、歴史や文学といった体系的な共有財産に連なることを望」む可能性はあっても必要はない。
そして、私が彼の主張が根本的に間違っていると思う部分は「そんな彼らが出会えた「感動」は、他人から見てどんなにありきたりで「通俗」であろうと、商業ベースに踊らされていようと、個人の範囲では真実なのだ」というところである。私が実際に属している若者文化においては自己と大多数的他者とのつながりが非常に重要視されているのだ。究極的には他者とのつながりを嫌っていようとも、自分の属する社会的集団と共通の認識を持っていたいという願望が強いと思う。だからミリオンセラーというものははじめから存在するのではなくて「よい作品である」という共通理念が生まれてから存在を許される。しかし、「実はこのミリオンセラー現象はごくパーソナルな、孤独の渇望の大集合なのである」という部分は賛成する。この「孤独の渇望」こそが社会的集団に属していたいという願望を生み出すのだから。
あと、「我々」とはいったい誰を指すのだろうか?生物学的成人のこと?社会的自立者のこと?低脳な若者たちよりも上等な社会的上位者のこと?結局のところ「大人」たちの「いまどきの若いもん」論でくくられてしまっているところがこの文全体の認識不足を露呈してしまっているとは思わないだろうか?自分たちだって今の情報まみれの時代をうまく制御仕切れていなくて時代が一人歩きしてしまっているというのに。

「道徳的な書物とか非道徳的書物といったものは存在しない。書物は巧みに書かれているか、巧みに書かれていないか、そのどちらかである。ただそれだけでしかない。」O・Wilde

―持病か二日酔いかどちらかわからない頭痛を抱えながら。