生きる

お出かけしてた間に貯まっていたラジオ講座を聞いたり、あこちゃんの記事をあれこれ読んだり、つよドラマ、木村さんドラマをみたりして、パンドラの最終回をみたりして思った事。
井上由美子の脚本は好きだ。監督も河毛俊作(だったかな?)でどちらもすまがらみのお仕事で知った名前だ。
が、すま縛り、事務所縛りのないドラマでやっと自分たちの本当に創りたいと思っていたドラマを創れたんじゃないって思う。ま、それなりの経験を積んだからだとも思えるけど。
なかなかよくできた人間ドラマだったと思う。何がどうしたって、今いる人間たちがつくりだしてる社会ってものを見せてくれた。怒ったり拗ねたり信じたり裏切ったりやさぐれたりねたんだり有頂天だったりだましたり。どれもこれも人間が生み出す感情である。
どれもこれもそこにあるのは愛(としか言えない)だ。

で、剛の舞台だ。
楽に近い方が、演目の世界観とか台詞の意味とかが血肉になって、こちらに伝わってくるようになっているだろうと期待していた。
でも、それは違っていた。剛の発する台詞からは、生き別れた生み母をなんとしても探し出したい、とにかく母に会いたい、渡世人として生きてる哀しい境遇をさらしても(それが恨み心になっていても)、本当はまっとうな堅気になってから巡り会えればいいのだけれどそれも叶わないつらい心境ってものが何一つ私の胸には伝わってこなかった。
”ぎりぎりのラインで生きてるから、すべての感情がマックス。だからテンションを極限に上げていくんですが、心の奥底には母に是が非でも会いたい切ない感情を常に維持していなければならない。”と、剛はパンフの中でいっている。
で、”ただ、台詞を口にするだけでは動けなくなるんです。”ともいってる。
だから”僕自身が本気でそう感じるまでにならないと”らしいのだが、私には剛の本気は伝わらなかった。

一度覚えた台詞の心情を理解して自分の言葉として発しているというより、一度覚えた台詞をただただリピートしているよね、って目の前の剛にいいたくなった。

その中でも、ゆっくり一語ずつ発するときには、ちゃんと忠太郎の気持ちが乗っていたと思うので、もっともっと忠太郎でいる時間がたくさんあれば、2000年ヤスのように、私の心の奥底を揺さぶるものになっていたんじゃないかと思うと、今いる剛の位置をかなしく思う。

板の上にいるということがどういうことかわかってる人は、誰にも見えていないような暗闇でもちゃんとその役になっているっていうのを(だって、板の上がその世界全部だもん)、藤原舞台を見るようになってからすごく感心して(舞台俳優のプロってすごいって)いたので、それがわかっていない主役を張る剛に腹が立つのである。


で、ラストシーンだ。
私が剛に一気に落ちていったヤスの時と同じように板の上で一人ライトを浴びている。
かっちょええ。
が、そこのいるのは紛れもないくさなぎつよしだ。決して馬場の忠太郎ではない。と、私には思えた。

そこで、私の心にわいた感情は、
ああーー、すまライブでの剛に会いたい。すまに会いたい!!!!!!!。そこがあんたのいるべき場所だよ!そこが一番あんたらしいんだよ!!!!!! 
だ。

目の前のむっっちり太ももと涼やかな目元と股旅姿がぴったりな剛を見て思った事でした。

煩悩欲望渦巻く芸能界で生きてるすまたちがどうか幸せであってほしいとも思ったりするが、剛は今日おもわせぶりな発言をしたらしいじゃいないか。女の趣味にかんしてはごろちゃんしか信じられないんだから、私の胸の中にトルネードを起こさせないでくれと思うのである。