学力の記事その2

やっぱり全部写しとく事にする。陰山何某の翌週の同じコラム欄。

 教育問題が行政にとっての主要問題となって久しい。けれども対策が功を奏したとは、滅多に耳にしないなかで私の勤務先のある犬山市は、ほとんど例外的に周囲から賞賛されているものの、いろいろ見聞してみると話しは違ってくる。
 例えば、授業の開始・終了を知らせるチャイムをやめた小学校がある。生徒が外から促されるのではなく、自発的に生活リズムを刻めることを狙ったものらしい。だが現実は理想とうらはら。休み時間はとっくに終わってるのに、うろうろがやがや。先生は収拾できない。それどころか授業中につかみ合いが起こっても手をこまねいているだけだったりする。
 校長室を開放し、関心のある方なら、いつでもどうぞと言う小学校もあるが、いざ特定の子どもが靴を便器につっこまれていたり、教科書のページが破り捨てられていたりする出来事が頻発すると、校長は口をつぐんだままとなってしまう。枝を払って校長室からの校庭の見晴らしを改良したが、保護者の間には「見張っているようだ」と動揺が拡がっている。
 現場の荒廃をくい止める学校改革が功を奏していないのは明白。市はというと、独自の教科書を作成配布しているものの、どれだけ使われているがは妖しい。
 施策者に共通しているのは、教室はるか後方の「司令部」から見栄えだけの良いアイデアを出している点だろう。教育を真実、改善するには何より個々の教師の力量を高めることが求められる。しかしそういう努力はしない。地味で目に見えないからだ。そしてスタンドプレーに多大な税金が浪費されていく。
(京都大霊長類研究所教授)    正高 信男

どちらの言葉が真実を見ているか、並べて読めばとてもよく見えてくると思う。というか、ヨーダとはじめてヨーダにあった時のルーク スカイウォーカー(あってるか?)くらい、教師としての力の差があると感じた。
タイトルもね、『「勉強して学力低下」の矛盾』と『スタンドプレー』なのさ。

頭がいいってやっぱりかっこいいなぁって思った。

それでも口当たりのいい楽で新しい感じで簡単に勉強が出来るようになるという錯覚を錯覚という自覚の持てないお母さんたちの受けは、陰山何某の方がずっといいのだろう。
で、コラムは中日新聞の『紙つぶて』欄。
そいで、毎日新聞『長屋のご隠居 てれび指南帳』松尾洋一の22日の記事。
幸兵衛とそめの会話でドラマについて毎週語ってるんだけど、幸兵衛は小言幸兵衛をもじってる(はずだ)。

幸 『女王の教室』(日テレ)だ。鬼のような女教師の教育観を巡って父母サイドの賛否両論。このドラマの反響はすさまじい。
そめ 遅刻したら教室に入れない。自己管理のできない者は授業を受ける資格無し。毎回のテストで最低点を取ったり、先生に異論を挟む者は、教室の雑用係にさせる。生徒や家庭の情報はすべてデータ化して監視し、できる子とできない子を差別するなんてトンデモナイ先公なんだよ。

中略

幸 あたたたちは総合学習ゆとり教育とやらで遊んでいる。その間にも有名私立小や中高一貫校で学ぶ仲間に、はるかに後れをとっている。あなたたち凡人はわずか6%に過ぎない特権階級のために将来安い月給で働き、高い税金を払い続ける愚か者でいてほしい。日本はそういう国になってしまったのだ。だったらどうしますか。ドラマを見てるお母さんたち、結論は分かるでしょう。
隠 たしかに少子化で「勝ち組負け組」の格差社会を生き抜くには、キレイごとではすまない。建前と本音の教育の分裂を見事に衝いているが、いずれは妖しいオーラを発する女教師の原理主義的教育観に挑む、児童たちの戦いになろう。
幸 だからこそ、切実な問題意識を裏切るような安易な結末にしてほしくないのだ。

すでに遅い気がする。今の校長になってからの地元の小学校は本当に遊んでばかりいる。人の話を聞かない、自分の言いたいことしか言わない、きちんと座って授業を受けることができない、なにかできないことがあってもそれはその子の個性だからそのままできなくてもいい、分からないことをわかろうとする意欲を持つことすら知らない。
ほんの数人の子どもとしか接していない私ですら子どもたちの将来を心配するのに。

あっ、何か書くつもりだったことを忘れてしまった。はぁ・・・。
思い出したらまた。

そうそう、なるほどそうかもねと思ったり。7/22更新の分ね。