一週間前

土曜日に京都へ行こうとバスに乗っていたら電話が入って呼び戻された。”中止、中止”。私の京都行きはあっけなく中止となり、娘が急遽京都から最後のお別れをするために帰ってくる事になった。
お通夜、葬儀と続いて、気がつけばもう今日はまた金曜日。一週間経ってしまっている。
親しい人との永久の別れはとても悲しい事なのだけれど、いつも思うように、葬儀っていうのは、残された人が悲しみから立ち上がる為に必要な儀式なんだと感じた。
事故などで突然失われた命ではなく、亡くなっていく人が病気で、命を諦めなくてはならなくなって、その残された時間がある程度与えられた後のお別れは、お骨あげまでお付き合いをすると、その死を受け入れられるようになっている。
大事な大事な弟を亡くした姉さん達であるおばさん方は、病院でのお別れからお骨あげまでの間で、ずいぶん気持ちが変わっていったようだった。
今は毎晩のお参りをしてお経をあげなくてはならないおばさん達は、ちゃんと気持ちもお別れが出来ていくようだ。
私はなにか信心があるというわけではないけれど、坊主丸儲けな戒名のお代とか祭壇の値段によるランク付けとかにはなにやら納得のいかない気持ちはあるけれど、亡くなった人を送るためのいろいろな儀式は、残された家族にとっては必要なものだと思っている。

体操友だちの一人の友人は葬儀なんてものにお金を使うのはもったいないから、自分が亡くなった時にはそんな無駄なお金を使うな、それが遺言だから守れと、家族に言ってあるそうだ。その人は坊主丸儲けのお寺の娘さんだそうだ。そんな話をしていた友人と、やっぱりお葬式って大事かな、なんて話をした(携帯メールだけど)。

忌明けの35日まで毎晩お経をあげに行く。困った時間がない。申告の準備も出来ない。大掃除はどうしよう。なによりスマが隊士達がHDDにたまっていく。
しかも、入札して落札までの間におじさんが亡くなってしまってその忌明け法要が落札したロミオ大阪の22日に決まった。う゛。困った。
組!最終回も前夜スマステもきちんと見れていない。
明日からは昼間はやっと平常に戻るだろう。あ、さんスマもある、スマステもある。

こうして、生きている人は命が終わる時まで生き続けていくんだなぁ。
生きてるうちに自分の人生楽しもう。